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「忠臣蔵の討ち入り」に新資料発見!埋もれた歴史的真実とは?

元禄15年「1702年)12月15日午前4時に

赤穂浪士が吉良邸に「討ち入り」

むかしから、年末の定番と言えば「忠臣蔵」
言われるほど、映画やドラマが公開されてきました。

だから
忠臣蔵を見れば、あ~12月が来たとか
年末だな~と実感してましたね。

「殿中でござる」「おのおのがた」

合言葉と言えば「山、川

と有名な名セリフたちが、つぎつきと出てきます。

これほど「忠義」と言う言葉に
日本人が「酔いしれる」民族とは。。。

最近は、新資料が発見され
赤穂浪士や吉良上野介のことが
詳しくわかって来ました。

今までの史実と違っていた?

今回は
NHKの運命のクロスストーリー
徹底捜査 「忠臣蔵」を参考にして。

TVを見ていない、あなたに300年の時を超え
その真相をお伝え致しましょう。

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忠臣蔵の討ち入りはどうして?

なぜ赤穂浪士の面々が吉良邸に押し入り
「仇討ち」を挙行しなければならなかったのか?

と言う事からに説明致しましょう。

浅野内匠頭とは?

播州赤穂藩(兵庫県西部)の
3代藩主浅野内匠頭長矩
(あさのたくみのかみながのり)は、

幕府から天皇の勅使を江戸で
接待する役に任命されます。

そこで、浅野の上司に当たるのが、
今回「敵討ち(かたきうち)」の相手となる

吉良上野介義央です。時代は変われど
(きらこうずけのすけよしひさ)

「ネチネチ上司」は、どこにでもいます。

今風に言えば「ストレス」が、たまり
我慢の限界を遥かに超え,自分でも
抑制が効かなかったのでしょう。

この当時、武士階級は「名字帯刀」が許され
つまり刀という武器を携えているのだから

「言葉遣いには、注意すべきだと」
私は思っています。

殿中「松の廊下」での赤穂事件とは?

酒を飲むとすぐこんな顔になる

時は
元禄14年3月14日午前11時

場所は
江戸城内の松の廊下

事件発生!

吉良上野介を見つけると
浅野内匠頭は脇差を抜き

4度にわたり、斬りつけ、
眉間に10センチの傷を

負わせたため、吉良は「重症」
江戸城内で、刃傷沙汰になれば
重罪は免れない

幕府は、事件の全容を知るため
お互いの事情聴取を行う事にしました。

喧嘩両成敗に何故ならなかったのか?

この件で、最も注目される所は、
武士同士の喧嘩として、裁かれるかどうか?

ここで、問題になるのが
「吉良側の反撃の有無」が判断材料に。

しかし事件の全容がわかり、吉良は、
「反撃はしておらず無抵抗」と言う事が判明

このことは喧嘩にはならず
殺人未遂として、浅野匠頭に厳罰が
下ることになります。

一方の吉良上野介は
反撃せず無抵抗だったため
「武士として、あるまじき行為」と

不可解な振る舞いとして
訝しむ声もありましたが
無罪放免になります。

武士は、いかなる場合も反撃しないと
行けないんだと。。。

現在では、理解出来ない部分となりました。

そして、名誉を非常に重んじるんだと思いましたね。

悪役、吉良上野介の意外な一面とは?

忠義の桜【大石神社】

事件後、吉良上野介は、浅野内匠頭を
「ご乱心」と言って、事件を穏便に
済ませようとしましたが

※乱心とは
 突発的な心身喪失状態を言います。

かたや浅野内匠頭は、「乱心」を否定
長年の恨みがあったと自供。

しかし恨みまでは、詳しく語らず。

一方被害者の吉良上野介は
このことを終始、穏便に
済ませたかったようですが

浅野内匠頭が切腹になった時、
ことの大きさに驚いた様子だったそうです。

自分のお膝元の城内での刃傷沙汰。
即日処分が決まり浅野内匠頭は切腹
赤穂藩はお取り潰しになりました。

その背景には、面目を潰された
5代将軍徳川綱吉の怒りがあったそうです。

吉良上野介は、忠臣蔵では悪役に描かれて
いましたが、地元では、かなり慕われていたと
聞いたことがありました。

映画の世界では、悪役が優しく
いい人だったら面白くないですからね。

一番の被害者は、赤穂藩の家臣だと思います。

現代だと
突然の「お家断絶」その日から浪人に
なるわけですから、本当に恨むのは

主君の浅野内匠頭を恨むのが筋だと思いますが

それは、武士という人間がわからないと。

大石内蔵助が討ち入りを決断する時?

大石内蔵助は
浅野内匠頭と吉良上野介の喧嘩ではなく

浅野家と吉良家の喧嘩と見ていて、

浅野家の名誉のため、武士の名誉のために

お咎めがなかった、吉良上野介に対して
必ず報復しなければ、と密かに思っていました。

新資料に基づいた吉良邸への討ち入りとは?

江戸城の刃傷事件から1年9ヶ月後
いよいよ赤穂浪士たちが動き始めます。

赤穂浪士の作戦は?

赤穂浪士は
討ち入りの前に詳細な吉良邸の見取り図を入手。

そこには、敷地面積が
なんと2550坪で、部屋数が40部屋

赤穂浪士
表門に23人、裏門に24人配置

二手に分かれ、挟み打ちするように
   吉良の寝室に向かいます。

吉良上野介も、いつの日にか赤穂浪士がせめて来ると
読んでいたのでは?その証拠に150人もの家臣団を
邸内に配置していたのを知ればわかりますよね。

     150対47

赤穂浪士から言えば、3倍の勢力

しかし赤穂浪士側も邸内をよく調べていて
弓などの武器を討ち入った最初に破壊!

長屋に100名近くの家臣団が
寝泊まりしているのを把握していたため

「カスガイ」で、戸を外から打ち付けられ
家臣団が出て、これないようにしたため

この時
人数が1:1の割合までなったので
戦う場合、非常に有利になったとされます。

暗闇の中の戦いで、勝利の法則とは?

12月15日の午前4時と言えば
討ち入った時、まだ夜明け前で
真っ暗な状態、当然、電気とかないので

当時の人は、現代人よりも暗さには
なれていたのかも知れませんね。

あの有名な「孫氏の兵法」などを読んでいると
やはり「勝つべくして勝つ」方法の限りを
尽くして、戦いに望んでいますよね。

だから吉良側は死者16名、赤穂浪士は、0名と言う
結果がそれを証明しています。以下は、戦い方

3つの戦法とは?

赤穂大石神社

その1)楔帷子(くさりかたびら)とは?

楔帷子とは、細かな鎖で出来た
今で言う「防弾チョッキ」に近い

「防刃チョッキ?」を身につけ
刀で切られても衝撃を分散する
ことによって、無傷!

後に吉良側も証言しておりますが
全然刃が通らなかったと

その2)敵と対する時に一向二裏の戦法とは?

前に一人後ろに2人、三角形を
思い浮かべてください。

その三角形の中に敵を囲むと言う
最強戦法が出来上がります。

人間の視界は、120度で一向二裏の戦法は
人間の盲点を、ついた戦法だったんですね。

その3)槍衾(やりぶすま)と言う戦法は?

次は、赤穂浪士が
使った槍をご紹介しましょう。

戦場で、刀傷と槍傷は
どちらが多いと思いますか?

これは、断然、槍なんだそうです。

考えて見て、ご覧なさい.
リーチの長さを、納得ですよね。

赤穂浪士は、「槍衾(やりぶすま)」
つまり、槍を持った人間が2~4名が
槍を隙間なく横並びになって攻撃すれば

避けようとしても、避けきれないため
やられてしまいます。

討ち入り後の両家の明暗とは?

吉良上野介討ち取られる?

しかし討ち入った後、吉良上野介の所在が
わからず、吉良邸内をくまなく探すが

見つける事が出来ず、赤穂浪士に動揺が
広がります。それは、夜が明け幕府側に

「討ち入り」がわかれば吉良上野介を
打ち取ることが、不可能になりかねない状況

しらみつぶしの捜索の効果、3度めにして
ようやく吉良が網にかかります。

その場所とは?

台所横の「炭置き場」に隠れていた
吉良上野介を発見。

松の廊下では
反撃しなく無抵抗だったので
「武士」として、あるまじき行為と

非難されましたが、今度は武士らしく
見事な最後だったと、後の赤穂浪士が
証言しております。

討ち入りが「忠義」だった?

大石内蔵助の幻の書簡も発見され
今回、行った「討ち入り」が世間から

どう思われるのか心配だと綴られて
おりました。

この度なぜ「討ち入り」を決行したのかの質問に

「主君が討ち漏らした仇を家臣として
 果たして忍ぶことができたでしょうか?」

「我ら家臣一同、亡き主君の志を継ごうとしたまで」

「武士として忠義を果たした
今、我らに何の未練がありましょうか?」と
訴えました。

赤穂浪士は、普通は人殺しの集団と言われても
不思議ではないのに、忠義の赤穂浪士として

現在も語り継がれているのは、後世のことまで
考えて大石内蔵助が画策したのでしょうか?

かたや被害者だった吉良家は
松の廊下で反撃しなかったのは
武士として問題として、

吉良家は、お家取り潰し
養子吉良左兵衛は、他家預かりに。

しかしこの養子21歳の若さで、病死。

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まとめ

最後に高橋英樹さんが言ってましたが
歴史は、勝者の歴史

やはり「勝てば官軍、負ければ賊軍」

なんでしょうか?

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