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(蒙古襲来)元&日本からの視点で考察!鎌倉武士団かく戦えり!

私がなぜ蒙古襲来を
書こうと思ったきっかけは

現在福岡市に住んでいて
西区の防塁跡や東公園にある
日蓮上人の像や亀山上皇の像

各神社などに蒙古石が
所々にあるとです。

そんな事で目にする機会が多々あり

ますます興味が沸いて来たのと本来歴史は
好きな方でしたので書くきっかけになりました。

日本側から見た視点ばかりではなく
蒙古側からの視点も織り交ぜながら

国家存亡の危機を鎌倉時代の人々は
何を思いどう切り抜けたのかを
書きつづりたいと思います。

蒙古襲来

なぜ蒙古は日本を侵略したのか?

今から800年まえ日本はそのとき鎌倉時代

大陸ではモンゴル帝国の
クビライ・ハーン(ジンギスカンの孫)が
中国の南宋を侵略中でした。

そのクビライが日本に興味を持ち始めたのは、
マルコポーロよりジパング(黄金の国)と
聞いていたのと

文永2年(1265)高麗人の官吏
趙彝が再三にわたって日本侵攻を進言したことが
きっかけで目覚めてしまいます。

しかしこの時はまだ南宋包囲網を構築
する為には日本と同盟関係を結ぶ必要があり
国書をもって使節が元より来ます。

しかし日本には南宋の僧侶がご意見番として
また鎌倉幕府も今で言う「スパイ」を高麗に派遣して
にいたため元の情報は逐一入って来ていました。

この当時外交関連は、朝廷が受け持って
いましたが国運をかける決断は、
なかなか出来ず7ヶ月後使節団は帰国します。

この時期に北条時宗は執権に就任します。
(執権とは鎌倉幕府の長をいわゆる鎌倉殿を
助け政務を統括する役職)

でもこの時点ではまだ侵略の糸は
なかったことが元の資料により
判明しています。

私の考えでは、南宋を侵略すればいずれ
日本にも魔の手が伸びて来るのは

時間の問題だと思ってます。
それは
日本侵略には水軍が
必要ですからね。

南宋にはその巨大な水軍があり
このためモンゴル軍は
苦しめられていました。

南宋を攻略すれば次は日本!
フビライはこのころから
日本が欲しかったと思われます。

南宋の水軍を除けば朝鮮の
高麗の水軍しかおらず
この兵力では心もとないですからね。

軍事の世界の常識として攻撃する方は
防御する方の3倍以上の兵力が
必要なことは定説になっています

話をもとに戻します。

元はその当時まだ南宋攻略中のため
再三に渡って日本にやってくる
元の使節団の要求をはねつけていましたが

これまでの経緯から返書をしなければと言う
思いも合ったみたいですが南宋の僧侶の進言に
より結局なにも渡さず帰してしまいます。

「元寇無料画像」の画像検索結果

文永の役

返書を返さない日本にとうとうフビライも
しびれを切らし侵攻がはじまります。

朝鮮半島の属国高麗国の900隻
2万数千の兵力で押し寄せてきました。

これがいわゆる「文永の役」です。

まず最初に対馬に上陸。
多勢に無勢なため瞬く間に
やられてしまいます。

対馬の青年は奴隷として摂取され
(この時代、捕虜は各種の労働力として
期待され戦利品との意味合いが
強かった模様です)

10日後次は壱岐に上陸ここでも
対馬と同じ凄惨な状況が呈されます。

さらに筑前の平戸島、鷹島、能古島を攻撃され
壊滅させられます。

ここまで、はなすがままに完全に大敗します。
兵力の差が歴然としてあるためどうしょうも
ありませんでした。

「元寇侵略図 無料」の画像検索結果

青線で印されたのが 「文永の役」
オレンジ線で印されたのが「弘安の役」
赤線で記されたのが  「防塁」です。

いよいよ
10月20日博多湾に元軍主力部隊が上陸します

ここで元軍の装備を解説!

元側は集団で軽装による機敏な戦い方が
得意で情勢により不利になれば即時に退却し

再起の為に兵力を温存しチャンスになれば
また攻撃をする集団戦法で鎌倉武士団を
苦しめました。

また武器は短刀、短い矢(毒が塗ってある)と
長槍と「てつはう」という空洞の中に鋳鉄や

陶器火薬を詰めて導火線で破裂させる物を
使用しておりこれは殺傷能力もあり

日本の武士にとって火薬という恐怖と
遭遇したのも初めてことだったのです。

この時神風は吹いたのか?

この様に戦い方が違うため最初は
苦戦を強いられます。

しかし百道原で合戦が始まり
日本側が勝利したため元軍は

その日のうちに船へ引き上げ
翌朝には博多湾からいなくなったと言う
記述が残っています。

一方「高麗史」(朝鮮の歴史書)によれば
帰国の途中の夜半に暴風雨あって多くの船が
沈没との記述がありますがよく調べてみると

時期的に台風ではなく波の高い玄界灘の
悪天候により被害を受けた可能性があります。

しかし侵略が目的でなかったのと武器や食料が
少なくなったので撤退して行きました。

この当時、鎌倉幕府はまだ全国を統一しておらず
弱みを見せたら幕府自体の存続が危ぶまれるため
強気の外交を展開その後の国書もことごとく
無視を続け敵対姿勢をさらに強めます。

このような状況下だし元は再び襲って
来るので万全の体制で待ち構えていました。

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弘安の役

その後決定的な出来事が起こります。

「元」の使節5人を鎌倉に呼び寄せ斬首にします。

このことが元のフビライ・ハーンの怒りを買い
再び日本総攻撃「弘安の役」が起こります。

東路軍4万人(900隻)江南軍10万人(3,500隻)

「文永の役」の5倍また侵略目的のため農機具などを
持った人も乗り込んでいた記述が残っています。

最初は東路軍が先発隊で「文永の役」と
同じように対馬、壱岐と攻略されます。

壱岐、対馬の人々は1回ではなく2回も。。。

言葉がありません。

そうこうするうちに東路軍は博多を目指します。

今思うのは、なぜ博多なのか?という疑問です。

博多港は当時日本最大の貿易港で「金や水銀、真珠」
等の取引をしていました。

「元」は陸のシルクロードばかりではなく
「海」のシルクロードのひとつに「博多」を
植民地にして交易を図ろうとしていました。

それと私は距離と時間だと思います。
この当時の造船技術は、そんなに高くは

ないと思われ、頑丈に作ろうと思えば
時間がかかるし
まして4000隻以上の船を
短期間に作らないといけないし

移動する距離を考えても博多は最適
だったんでしょうね

この間、鎌倉武士団は「元」の侵略に備え
石垣の「防塁」を半年あまりで完成させます。

国家存亡の危機この防塁を築くことは
鎌倉武士団の結束力を強める効果も
あったと思われます・

「元寇無料画像」の画像検索結果

各御家人により担当地域が決められ
その為石垣の作り方にも若干の違いが
見られます。

その規模は全長20キロメートル高さは、
高い所で3メートル幅2メートルを築き
万全の体制で元軍を待ち構えます。

元軍の船が博多湾に姿をあらわしますが
今度は「文久の役」の経験が役に立つ時が
きます。この日のために研究してきました。

今度は改良された射程の長い弓を使い
バタバタとなぎ倒し元軍の上陸を阻止します。

「文久の役」みたいに簡単に上陸は出来ませんでした。
沖合に退いた元軍の船に日本が得意とする
夜襲攻撃を仕掛けます

「元寇侵略図 無料」の画像検索結果

10人くらい載せた小舟で静かに近寄り
白兵戦(刀剣を用い近接戦闘をする)に突入します。

夜、船の上では集団戦法は役に立たず元軍は
鎌倉武士団の刀のツユとなり消えていきました。

6月15日に江南軍と合流し攻める予定だったのですが
指揮官の交代などにより大幅に時間をとられた模様~

巨大になった組織と言うものは統制が取りにくくなり
また船が腐り食料も底をつき始めます。

元軍は陸戦には長けていたんですが
水軍を動かす能力には欠けていましたね。

勝敗はどちらに?

7月27日江南軍がようやく到着し
両軍合わせて兵力14万軍艦4,400隻が

集結しましたが合流に費やした日数
1ヶ月半これが命取りとなります。

7月30日ここで有名な
「神風」が吹き将兵の命を奪います。

台風が去って総崩れになった元軍指揮官たちは
自軍の船団を見捨て動ける船だけで逃走します。

鎌倉武士団は、平戸・鷹島で残党狩りを
行い5日後、掃討が完了します。

その後も
クビライ・カーンは、三度目の日本侵略をするため
巨大艦隊作り目指すもものの80歳でこの世を去ります。

かたや
北条時宗は「弘安の役」後3年の34歳の若さで死去します。
私の憶測ですが戦争による心労が原因では?と思いますが。。。

まさにこの国難を防ぐために生まれて来た人だったのでしょうね。

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まとめ

北条時宗は
17歳で執権となり一歩間違えれば
亡国の危機それを乗り越え日本を

救った功績は計り知れないものとだ
思われます。

北条時宗は蒙古の事がわかってないと言う
記述がありますが情報収集は事細やかに
やってたはずです。

あの当時アメリカ並みの強大な軍事力を
背景に恫喝(脅して脅かすこと)したのに
ことごとく使節団を帰しますよね。

しかし最後には使節団を斬首してしまい
確固たる信念を持ち何事にも屈服しない
姿勢に私は惹かれました。

しかし対元寇戦での勝利の結末が劇的で
台風だったものですからこの後日本に

与えた影響は計り知れなく「神風」
ばかりが強調され

北条時宗をはじめ鎌倉武士団の功績が表に
出て来る事はありませんでした。

しかし我が日本はこのあと2度の国難に
見舞われてしまいます。

明治時代の日露戦争は辛くも勝利しましたが

昭和時代のアメリカとの太平洋戦争には初めて大敗します。

この時「蒙古襲来」の時の「神風」が誤った
伝わり方がした為多くの若者が散って行きました。

歴史は繰り返すと言われます。
先人たちの苦労を参考にし
教訓にすべきだと思いました。

最後に余談ですが
ちなみに「蒙古襲来」と「元寇」は
同じ意味なんです。

「蒙古襲来」は古くからの呼び名で
「元寇」は「倭寇」と対比して後世に
作られた言葉でして「寇」は(野蛮人が攻めてくる)

と言う意味があるので「蒙古襲来」の呼び名が
最近主流になっています。

ご精読ありがとうございました。

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